[Novels]

[Short story]

竜の方舟

Dragon's Arc


 エールケディスと呼ばれる大地。その西に広がる青の平原を治める、西のエルフの王ラドゥイアゴスの息子、西のエルフの王子であるリドゥイアスは空を眺めていた。海のように広い、けれども湖であるメルアス湖の畔に座って、空色の瞳で空を見上げている。枯草色の長い髪は風に靡き、風は優しく彼の頬を撫でて過ぎて去っていく。そんな風には、姿を見せることは決してない湖の乙女ウンディーネたちの囁きが乗せられていた。

──黄金の王ラドゥイアゴスの息子、リドゥイアス。あなたは空色の瞳で、何を見ているの。

「空を流れる雲の様子を観察していただけさ。どうして空を雲は流れるのだろう、ってね」

 ああリドゥイアス、あなたはやっぱり変わっている。湖の乙女たちは口々にそう呟く。うるさいなぁ、ほっといてくれ。リドゥイアスは乙女たちにそう言い返しながら、また空を見上げていた。

 でもリドゥイアスは、決して雲を観察していたわけではない。空に探し物をしていたのだ。また見れるかな。彼が探していたもの、それは幻の大陸。誰も辿りついたことが無い、誰もそこに何があるかを知らない、前人未到のかの大陸を。

 空を往く浮遊大陸、先人たちは其れを“アルフテニアランド”と呼んでいた。そして先人たちはこうも呼んでいた。竜の方舟、と。

 竜、とはエールケディスの守護神チャリスを指していると言われていた。守護神チャリスが住まう大陸、だから竜の方舟。そんな説もある。けれどもリドゥイアスはその説をあまり信じていなかった。もう一つの、別の説を信じて疑わなかったからだ。

 それは気が遠くなるほどの昔、それこそ3億年もの長い年月を生きている始のエルフが一人たる父ラドゥイアゴスがエールケディスに生を受けるよりもずっと昔。人間という種族が栄華を極めていたとされる時代の話だ。

「……やっぱり、見えないかな」

 人間たちは栄華を極めていた余りに、傲慢になっていたのだという。限りある大地を削り取り、海を埋め立て森を伐採しつくし、湖を乾涸びさせて他の生物を殺戮しつくし、それでもなお破壊を止めなかった。そしてそんな人間たちに守護神チャリスは愛想を尽かして、その全てを浄化してしまったのだという。

 その浄化というのは、全てを水で洗い流すという荒々しい技だったらしい。守護神チャリスはそもそもとして水を司る神であり、その程度は朝飯前であったのだろう。そうして守護神チャリスは透明でなくなっていた海や川、湖の水を氾濫させ、大地の全てを呑みこんだ。其処にあった全ての建物を、其処に根付いていた全ての文明を、其処に生きる全ての生命たちをも纏めて水で洗い流したのだ。

 けれども守護神チャリスは、一部の残されるべき種の番いたちを予め別の場所に集めて隔離し、そこで保護していたのだというらしい。そして氾濫していた水が引き全てが終わった頃に、全てが始まりに戻された大地に種を撒いた。それがエールケディスの始まりであり、一部の残されるべき種の番いたちが隔離し保護されていた場所こそがあの“竜の方舟”である。

 そんな説を、リドゥイアスは信じていた。そうだと思っていた。

 けれども正解は誰も知らない。今なお生き続けている始のエルフたち、父である黄金の王、西のエルフのラドゥイアゴスでも、夕凪の女王、東のエルフのイグリザンドでも、喝采の王、南のエルフのガゼルゼンスでも、吹雪の女王、北のエルフのヤムリシェンドですらも知らないのだ。

 そうであれば南西に住まうドワーフ族や極東に住まうケット・シー族、中東のホビット族が知るはずもない。森の妖精レーシーたちや愉快な小人コロポックルたち、ときどき青の平原で騒ぎを起こしてくれる小さな羽妖精ピクシーたちも、湖の乙女ウンディーネたちも、火山の精霊サラマンドラたちも、風の妖精シルフたちも、洞窟の中で時折姿を見せる地の妖精ノームたちですらも、きっと知らないことだろう。

 だからこそ、いつか僕は其処に辿りついて見せる。其処に何があるのかを、見極めて見せるんだ。

 けれどもこんな話をすれば、父には鼻で笑われることだろう。母にもまた、どこかで頭でもぶつけてきたのではないかと心配される。それにきっと、他のエルフたちにも笑われるだろう。それこそ腹を抱えて、失神しかける寸前まで。

 リドゥイアスよ。どうしてお前は、聡明で偉大なる父とは真反対にどこまでも愚かで考えなしなんだ!

 そんな言葉が、頭の中で反芻する。それはリドゥイアスが3000年前に産まれてから、ずっと他のエルフたちに投げつけられてきた言葉だ。そんな罵倒の言葉にもう何も感じはしないが、ムッとするのは事実。偉大なる父と常に比較され、そして蔑まれる日々に飽き飽きともしているし、出来る事なら他のエルフたちを、そして父ラドゥイアゴス王を見返してやりたいとも思っているのだ。方法はこのかた3000年、一度も思い付いたことはないのだが。

 リドゥイアスの空色の瞳は移ろう空を漠然と見つめたまま、今は見えない竜の方舟に思いを馳せる。そんな彼に、草を踏む音が近付いてきていた。ふと振り返るリドゥイアス。そこには父ラドゥイアゴス王の側近である西のエルフ、疾風のゲルトダラスの姿があった。

「リドゥイアス、王がお呼びです」

 むっと顰められているゲルトダラスの眉。リドゥイアスの背に冷や水が注がれる。そしてぶるっと震える彼の頬を、湖を吹いた弱いそよ風がまるで嘲笑っているかのようにくすぐっていった。

──黄金の王ラドゥイアゴス。彼がとても、怒ってる。

──黄金の王ラドゥイアゴスの息子、リドゥイアス。またあなたは、狩りの仕事を忘れたのね。

「行きますよ、リドゥイアス」

「……はい」

 リドゥイアスはゆっくりと立ち上がり、彼の腕をゲルトダラスは引っ張っていく。ゲルトダラスに引っ張られ歩くリドゥイアスの足取りは重く、父ラドゥイアゴス王の御前に赴くのがどれくらい憂鬱なのか、その具合が察し取れるのであった。


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